国道257号 マンボウ峠周辺旧道群

浜松引佐IC付近の旧道群。

 

(重要)画像が表示されなくなったので一部内容を変更してこちらに移行しました。

 

 

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周辺図。

青い線は旧旧道こと旧鳳来寺道仏坂。

今回は緑色の旧道。

2020 1/5

現在地

国道257号を走っていて、ずっと旧道が気になっていた。

旧道に入る。

って、旧道を進むとすぐそこに出るんだけどね(´_ゝ`)

岩が転がっている。

どうやら資材置き場になっているらしい。

カーブ。

崩れた個所を補修した跡。

国道に戻ってきた。直進が旧道の続き。

右側を見る。

現道の国道は大きな切り通しで通っている。

国道を渡る。

ここより下は盛り土。

国道を渡った先の旧道の続き。

警戒標識

...あれ、これが側溝なのか。現道時代からこれ?

ガードレール。

カーブ。

カーブの外側に標識があった。

ここから次の旧道が見える。

国道にぶつかる。

帰りに国道から撮った写真。

綺麗に?切られてる。

坂の下を見る。

さっき見た切り通しの上側。

国道を渡って向こう側の旧道に行く。

バス停があったので見てみる...って、あれぇ

1日1本。一日一善みたいに言うな

行きだけって...どゆこと。帰りは遠鉄のタクシーを使えってか。

浜松市内に入らないとは言え、政令指定都市でこれは酷い。

やっぱり、浜松市は大きい田舎だった。

旧道を進む。現在地

左側が高くなっているのにガードレールがあることに違和感。こういうもんだっけ。

現道を作るときに谷を埋めたかな。

カーブ。

ここも側溝が浅いやつ。

国道の高さに合わせて坂になっている。

国道の先に旧道が続く。

右側を見る。

ここも切り通し。

国道を渡った先の旧道。

警戒標識

竹製のバリケード

初めて(^-^)

越えるか潜るか微妙な高さだったが、下を通った。

広い。

山側はきっちり固められている。

ここの旧道だけ草木が茂っている。

廃道だからというのもあるだろうけど。

国道にぶつかる。

振り返る。

坂の下を見る。

国道を通ればすぐなのに、わざわざ旧道を通るとだいぶ遠回り。

 

ここから次の旧道まで国道を歩く。

浜松引佐IC。坂を上る。振り返る。

 

道を渡ったあたりから旧道が始まる。

[現在地]

旧道跡は駐車場になっている。

ちょうど2車線くらい?

緩やかなカーブ。

旧道の入り口が見える。

現道は凄くショートカットだなぁ。

少し坂を上り、次の旧道に入る。

現道と旧道の大きなU字カーブの間のスペースは資材置き場になっている。

航空写真で確認するとここは現道時代は2車線だったらしい。

カーブ。

国道に戻ってきた。

次の旧道に向かう。

右側に旧道が伸びている。

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[周辺図]

この旧道は今までの旧道と違い、新東名高速道路引佐連絡路が建設されたときにできた旧道。旧旧道も一部残っている。

右側に旧旧道のガードレールの支柱が残っている。

少し登って旧旧道の路盤に立つ。

すぐに行き止まり。

旧道に降りる。

ああ、やっぱりペイントが残ってる廃道が好きだな...。

天に上る廃道...。

フェンスが現れた。

ここから先は高速道路の切り通しになっている。進むと「天に昇る」事に...。

では...帰りますか。

 

 

マンボウ峠周辺旧道群の探索を終えた私は坂を下り、旧鳳来寺街道に向かった。

 

 

 

さて。探索中には一度も「マンボウ峠」という名前は出てきませんでしたが...。

 

 

引佐町史 下巻(平成5年/引佐町)に、「マンボーの峠」という項目があります。

【前略】マンボーというのは「真掘 (マンボリ) 」、すなわちしっかり堀った溝とか隧道(トンネル)のことで純粋な日本語である。

 引佐町史 下巻 p.1272より引用

 どうやら、峠の名前の由来は隧道らしい。同ページに隧道の写真も掲載されています。

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引佐町史 下巻 p.1272より引用

古い地形図にも確かに隧道は描かれている。が、現在はこの付近に描かれている隧道は新東名のトンネルくらいしか見当たらない。

この隧道が描かれていた場所に現在何があるかというと...新東名引佐連絡路。

まさか、新東名が建設されたときに開削されたのか!

 

...同じ引佐町史下巻に、このような記述がありました。

【前略】仏坂が細くて急であるために明治二十二年にマンボーを掘って新しい道としたのであるが、昭和六十ニ年に取り壊して広い切り通しの国道となった。

引佐町史 下巻 p.1287より引用

取り壊したのは昭和62年とある。そのころの新東名はまだ構想段階らしいので、当然工事は始まっていない。つまり、単に国道拡張のために開削されたらしい。

それはそれとして、隧道はなんと明治22年に掘られたらしい。掲載されていた隧道の画像だとコンクリートだが、明治ということは煉瓦か素掘りの可能性が高いはず。どこかで拡張されたのか?

 

...またまた引佐町史下巻の口絵に載っていた、一枚の写真を見つけた。

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引佐町史 下巻 p.3より引用

 やはり、拡張されていた。

引佐町史上巻・下巻とともに一通り目を通したが、拡張前の隧道の写真は見当たらなかった。

 

東黒田隧道のあった場所のすぐ近くに、「引佐マンボー峠橋」という名前の橋があります。

 

隧道がなくなっても、隧道を示す「マンボー」という言葉が現地に残っていることに感動する。